徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

仙石線に存在した行楽列車とは

現在では仙石東北ラインが松島・石巻への速達・観光輸送、仙石線は仙台と仙台のベッドタウンを結ぶ通勤路線の側面が強くなっていますが仙石東北ラインが無い時代は松島・石巻への高速輸送・観光輸送も仙石線(本線)が一手に担っており快速列車がその顔となっていました。しかし、今から半世紀以上も前の時代には仙石線を利用して独自の観光列車を走らせ行楽輸送を行っていたと言われています。それらは一体どのような列車だったのでしょうか。

宮電時代から観光輸送には積極的だった

1928年に全通した宮城電気鉄道本線。宮電の社長であった山本豊次は宮電を軸にした沿線の観光開発に積極的でした。特に松島、野蒜は宮電線の沿線でも特に風光明媚な場所であり両場所へ沿線開発が集中しました。一例として松島には松島遊園の名の下食堂や人形劇場、浴場の設置を行い観光客を誘致、野蒜では野蒜駅を東北須磨駅に改称の上で野蒜不老山海水浴場を開設、宮電が運営するホテルや長寿館というキャバレーの設置といった開発が積極的に行われました。これらへ向かう観光客や行楽客を輸送する事を目的に宮電は独自に観光列車を走らせることとなり1933年には観光輸送に特化した展望列車が仙台〜石巻間で登場しました。乗客には野蒜(東北須磨)下車の場合は大高森などの松島四大観を巡るツアー券も同時に付けていたと言われています。展望車にはデハニ202を使用、2等車とした上で使用していました。そしてこの列車には目的地迄も楽しんでもらえるよう、ガイドガールと呼ばれる専属のアテンダントも乗務、松島・野蒜の観光案内や乗客へ温かい紅茶やケーキを提供し、目的地へ向かう迄も楽しんでもらえるようサービスしていました。1937年には先進的な半鋼製クロスシート車・モハ800形も観光列車に加わりこれらを用いた観光列車は宮電の看板となるにまで成長、利用者からも親しまれていったのです。

宮電と競合する仙台鉄道局ではこのようなポスターが掲載されていたそうです。

Wikimedia commons Japanese Government Railways 様より引用

国有化後、仙石線管理所によって復活した観光列車

1944年、宮城電気鉄道本線は国に買収され,運輸通信省仙石線となりました。国有化後暫くは看板となる観光列車は設定されず、基本的に通勤や買い出し輸送に徹する事となります。転機は1956年。仙石線を独自で管轄する為仙台鉄道管理局は仙石線管理所を陸前原ノ町に開設します。この仙石線管理所は赤字が問題になりつつあった仙石線の経営改善を念頭とし東北本線仙山線と比べ私鉄生まれの異端な生まれの仙石線を路線単位で経営していく、という事を行なっていきます。この時に快速列車の設定もなされましたが,この時に仙石線の観光列車が復活する事となります。このタイミングで観光列車が復活した要因の一つに国鉄はバスに金華山方面の観光を取られつつあり、仙石線管理所の元仙石線を利用して需要をバスから鉄道へ、という目的もあったそうです。「金華山号」、「まつかぜ号」などの愛称が付けられこの観光列車に乗り松島・野蒜方面、並びに石巻線方面の金華山方面への観光を行いました。車両はクモハ12といった車両が使用されていましたが,全車指定席・並びにかつてのガイドガールのような乗務員が観光案内をするといった事が行われていました。こうして再び観光列車が登場した仙石線でしたが、1971年、仙石線管理所が廃止となります。これと前後する形で金華山方面への観光を重点に置いた観光列車も運転を終了。以降、観光輸送は快速・特別快速によって行われる事となります。

終わりに

かつて宮電時代、仙石線管理所の時代に運行されていた観光列車。後に観光列車にも近い存在とも言えるマンガッタンライナーが一部のうみかぜとして運用されていましたが,専用の観光列車という形ではなく、現状定期の観光列車は仙石線管理所時代の「金華山号」が最後となっていると言えそうです。