徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

気動車のマンガッタンライナーはどれくらい存在していたのか

現在,仙石線全線を走破するマンガッタンライナーは存在しておらず,その代わりに仙石東北ライン経由のマンガッタンライナーが存在するのみとなっています。仙石東北ライン経由である為に車両は気動車であるHB-E210系のみが現役でマンガッタンライナーとして運用されるのみとなっています。では,気動車のマンガッタンライナーはどれだけ存在していたのでしょうか。

震災以後に登場した気動車マンガッタンライナー

2011年の東日本大震災発生以後,全線復旧の時までマンガッタンライナーが石巻までやってくる事はありませんでした。7月には石巻〜矢本間が復旧し,その日から仙石線末端区間の運行が再開されたものの,変電所・信号設備が津波の被害を受けた使用出来なくなったことからスタフ閉塞・キハ110による運行という形で復旧することとなります。そのキハ110の側面には石ノ森氏の作品のキャラクター達が描かれた応援メッセージが窓下に描かれており,マンガッタンライナーを彷彿させる姿であったものの,限定仕様であったこともあり1年で通常仕様に戻っています。

2013年には不通の間でもマンガッタンライナーを運行し復旧まで繋ごうと先に復旧していた石巻線に本格的なマンガッタンライナーを走らせることとなりました。折しも石ノ森萬画館がリニューアルオープンすること,仙台・宮城デスティネーションキャンペーンが重なったこともあり石巻への彩を再び差し込むのにピッタリであり,2013年3月23日,復興のシンボルとして石巻線マンガッタンライナーは走り出すこととなったのです。車両はキハ48の4両にラッピングが施工され,一番列車は石巻駅でむすび丸らのお出迎えもあり華々しく登場しました。これが初の本格的な気動車版マンガッタンライナーで,2014年5月には車内でシージェッター海斗のヒーローショーを行ったりと205系のマンガッタンライナーが帰って来るまでの間を繋いだのでした。そして全線復旧の後石巻線マンガッタンライナーは姿を消したのです。

HB-E210系に受け継がれたマンガッタンライナー

全線復旧以来マンガッタンライナーは震災前と同じく205系の2編成のみである状態が続いたものの,2021年に石ノ森萬画館が開館20周年を迎えたことや仙石東北ラインを用いて石巻へ向かう客の増加などからも仙石東北ライン側にもマンガッタンライナーを導入する事が決定,2022年1月より運行が開始される事となりました。実はHB-E210系へのマンガッタンライナーラッピング計画自体は以前よりあったとされているものの,具体化せずに長く遷移していた中での正式決定となったのです。

HB-E210系のC-1・C-2編成へそれぞれ風・夢と題材を打ったラッピングを施し2022年1月19日にデビューを飾りました。風編成は文字通り風をイメージしたラッピング,夢編成は漫画のコマをイメージしたラッピングが施され,また新たなイメージのマンガッタンライナーを生み出しました。

当初は出発式などを計画していたものの,コロナ禍でのデビューであったこともあって出発式は中止となりⅠ,Ⅱ,石巻線マンガッタンライナーとは異なり静かな出発となってしまいました。夢編成が先にデビューし,少し遅れて風編成がデビュー。共通運用である事から時には互いに併結したフル編成を組成したりしており,205系マンガッタンライナーの亡き今,唯一のマンガッタンライナーとして存在しているのです。

終わりに

結果的に臨時で組成されたキハ110のものを除けばキハ48の4両とHB-E210系の4両,4編成8両が気動車でマンガッタンライナーを組成していた事となります。編成数的に言うと電車のマンガッタンライナーよりも本数が多いと言うのが意外な所です。

E131系800番代の製造ペースは仙石線の歴史上どれくらいなのか

2025年4月11日に初めて姿を見せたE131系800番代のN1編成。6ヶ月近くも1編成のみが本線上で試運転を行なっていたものの,10月以降N2・N3と一気に姿を見せ,2月までに全14編成が落成し切りました。この製造ペースは仙石線の導入ペースとしてはどれくらいだったのでしょうか。

E131系の製造ペース

2025年4月より総合車両製作所新津事業所にて製造されたE131系800番代。4月にN1編成が姿を現した時,他のE131系とは一線を画す姿に度肝を抜かれたのを今でも覚えています。同じ非貫通型でも1000番代の場合,ダミーの貫通扉を設けたのに対しこちらは完全な非貫通スタイル,制御装置が今までの日立SiCから三菱SiCへの変更などこれまでのE131系からの変更点が多くむしろE131系をベースとした中小私鉄の自社発注車という雰囲気で良くも悪くもJRらしさの薄い車両であると感じていました。

初めはN1編成の1編成が4月に落成して以来暫くは1編成のみが籍を入れている状態だったものの,新津事業所内では製造が続けられており既に1編成分が揃っているという車両が続出しておりそれらは10月以降に次々と籍を入れる事となります。10月11日には新津事業所が公開されましたがそのタイミングでりんかい線71-000形と並びN4編成が公開されていました。

10月1日より次々と籍を入れる編成が増加していく事となります。以下が月ごとの入籍のその例です。

2025年4月→1編成(N1編成)

2025年10月→2編成(N2・N3編成)

2025年11月→2編成(N4・N5編成)

2025年12月→5編成(N6〜N10編成)

2026年1月→3編成(N11〜N13編成)

2026年2月→1編成(N14編成)

仙石線の新性能車両の導入ペースから見るE131系

このように,10ヶ月で導入を完了したE131系800番代ですが,これは仙石線上ではどれくらいの速さと言えるのでしょうか。

先代に当たる205系3100番代は2002年中にM1〜M6の6編成,2003年中にM7〜M15の9編成,2004年中にM16〜M18の3編成と2009年のM19編成と19編成を合計1年9ヶ月で導入しています。この205系3100番代の導入ペース自体も仙石線では最速クラスで導入が続けられていました。

205系3100番代が置き換えた更新工事を実施した103系は1990年に8編成,1991年に1編成,1992年に6編成,1994年に1編成,1998年に2編成導入とかなりのばらつきがある事が分かります。導入ペースは1年と4年のブランクがある為それを除くと合計2年7ヶ月で導入がされています。

時代はさらに国鉄時代に遡り,仙石線新性能化第一号である103系の初代転用陣の場合,1979年になんと11編成を揃えており1980年導入は1編成だけに限られ,この12編成で72系通常編成を全て置き換え切りました。1984年には72系970番代淘汰用に4編成が転属しこれを3ヶ月で導入がなされています。この事からも初代仕様は1年5ヶ月で導入し切っています。数値だけ見ると205系よりも早く感じますが,実際には多くのブランクがある為それも含めると6年少々掛かっています。

このように,仙石線の新性能車両の導入ペースを見るとやはり1年未満で導入し切ったE131系800番代の導入ペースの速さが分かる結果となりました。

終わりに

E131系800番代の導入ペースは僅か10ヶ月であり結果的に205系3100番代が打ち立てた仙石線導入ペースの最速記録を大幅に上回る結果となったのでした。この事からも次の車両が置き換えられる時にはE131系800番代もまた一気に置き換わる事になりそうです。

ムーンライトうみかぜとは何だったのか

2025年9月20日と2026年3月21日と2回実施された団体列車,ムーンライトうみかぜ。このムーンライトうみかぜが最終的に205系3100番代最期の花道となった訳でしたが,同列車はどのような存在だったのでしょうか。

快速うみかぜの名の復活

1988年3月ダイヤ改正で仙石線の快速列車にはうみかぜという愛称が付与されました。この時期の仙台駅を発車する快速列車の多くには愛称が付与されており東北本線南部を行く快速には愛称は無かったものの,東北本線北部は気仙沼線直通の快速南三陸,仙山線の仙山,そして仙石線のうみかぜという3つの柱でした。この快速うみかぜは仙石線の快速列車全てに与えられた為当時運用されていた休日運転のノンストップ特快にもうみかぜという愛称が与えられていました。この時がまさに仙石線速達化の最高潮と言える時代でありノンストップ特快は表定速度70.2km/hを誇っていた時代でした。

そんな快速うみかぜでしたが,2000年3月改正でノンストップ特快が廃止され,特別快速自体も2003年10月改正で廃止,そしてうみかぜの愛称自体も2004年10月の土休日ダイヤ廃止に伴うダイヤ一本化の煽りを受け廃止となり快速うみかぜは歴史の彼方へ消えていく事となったのでした。

うみかぜの愛称が消滅して久しい2025年8月,JR東日本より仙石線内での団体列車運用が発表されます。その名称がムーンライトうみかぜでした。

第一回目の時に充当されたM5編成。

2Wayシート車最期の花道

快速うみかぜが愛称消滅してより21年の時が流れていましたが,このタイミングで団体列車という形で復活する事となった「うみかぜ」の名称。充当車両は2Wayシートを転換させると発表があったように2Wayシート車のどれかという事は明かされていましたが具体的な編成までは当日まで分からないという状況でした。ダイヤとしては石巻までは行かず陸前山下で折り返す形ではあるものの復路で陸前山下〜宮城野信号場をノンストップで結ぶダイヤが組まれ往年のノンストップ特快を彷彿させるダイヤとなりました。

そしてこのムーンライトうみかぜの最大のポイントとして先述のように2Wayシートを10年振りにクロスシートに可変しての運転であり,これもまさにかつての快速うみかぜを彷彿させる姿となりました。

9月20日〜21日にかけて運行されたムーンライトうみかぜ。充当される事となったのはM5編成で2Wayシート搭載車では一番快速うみかぜ運用時の姿に近く運用変更をかけてこの編成を充てたとも言われています。M5編成は助手席側に103系時代のヘッドマークを彷彿させるヘッドシールを貼り,2Wayシートもクロスシート状態で運行され,20年以上前の姿が蘇ったかのような光景を見せてくれました。

結果的にこのムーンライトうみかぜが2Wayシート車の実質的なラストランイベントとなり12月には充当されたM5編成が,2026年1月には最後の2Wayシート搭載車だったM3編成が廃車となり廃車に合わせたラストランイベントは行われる事は無くひっそりとした終焉となったのでした。

205系3100番代の最期もムーンライトうみかぜ

2025年12月よりE131系の運用入りが続々と行われ205系も次々と廃車になって行きました。そんな中2026年2月には205系3100番代のラストランイベント開催が決定し,3月20日〜22日までの期間で行われる事が発表されます。3月20日は昼行運転のラストランとなりましたが,3月21日〜22日のラストランはムーンライトうみかぜ。ここに来て2回目のムーンライトうみかぜ運行が挙行される事となったのです。これが意味する事は205系3100番代の集大成をムーンライトうみかぜが飾ると言う事を意味していたのです。最後のムーンライトうみかぜは前回とは異なり全線走破,石巻までの運行となり復路は前回と同じく宮城野信号場までノンストップというダイヤとなりました。充当編成については明かされておらず,当日をやはり待つ事となりました。

そして3月13日,定期運用が終了。この時点で残っていたのはM1編成とM18編成。団体列車運用直前でM18編成が廃車回送されたことにより充当編成はトップナンバーでもあるM1編成であることが確定しました。そきて迎えた3月21日,M1編成はかつてM5編成が掲げたヘッドシールを貼り再び姿を見せます。発車の際には205系3100番代の色をモチーフにしたという花束が1号車車掌台に飾られ,うみかぜのヘッドシールと共に彩を添えていました。そして最後の仙石路をM1編成はムーンライトうみかぜとして全力疾走。3月22日の朝5時22分,あおば通に到着。これを持ってムーンライトうみかぜ,そして205系3100番代の旅客輸送は全て終了する事となったのでした。

2回目のムーンライトうみかぜ充当されることとなったM1編成。

終わりに

2回の団体列車として運用されたムーンライトうみかぜ。それは205系3100番代にとっても終焉の愛称でもあり最後の花道でありました。E131系800番代はうみかぜでの運用実績が無いことからも205系3100番代がムーンライトうみかぜの最初で最後の運行になるのかもしれません。

205系3100番代M6編成は何故復帰したのか

205系3100番代のM16編成が1月28日に引退してから間もない1月31日,最後までHID灯のままで残っていたM6編成が引退しこれで205系3100番代はLED灯の車両で揃います。しかし2月14日,M6編成は突如として復帰する事となります。一体何故だったのでしょうか。

M6編成の急遽復帰

E131系800番代の導入が進んでいく中でもHID灯を維持して残っていたのがM6編成でした。同編成はM5編成が2025年12月に廃車となって以降最後のHID灯の編成として残存し孤軍奮闘を続けていました。しかし同編成も1月31日付けで運用を離脱し後は廃車回送を待つばかりとなりました。

ところが同編成を置き換える予定となっているN11編成がいつまで経っても仙石線へやって来ないという事態に陥ります。丁度この時期,新潟県・群馬県境の上越国境付近では大雪に見舞われており上越線の運行の混乱が続いていました。この混乱の煽りは廃車回送中だったM3編成+M19編成が高崎駅で抑止を喰らう事となり牽引していたE493系を切り離して暫く留置される事態になったのです。この煽りを受けた事によりN11編成が新津から発車することが出来ず抑止され続けたこともありN11編成が仙石線にやって来ないという事態になったのでした。その結果,M6編成は宮城野に留置され続ける結果となり構内移動を繰り返す事となります。

このようにE131系の入線・205系の廃車が天候の混乱により予定通りに進まない中である問題が発生します。M16編成を置き換えたN9編成が車内灯の故障を引き起こし暫くの離脱をせざるを得なくなったのです。後継のE131系がやって来ない事に加えN9編成の離脱により列車の運休を避ける為にも東北本部は決断を下す事となります。それは既に離脱をしていたM6編成を緊急的に復帰させN9編成が復帰するまで一時的に穴埋めを行う事になったのでした。

2月12日,M6編成はSM718運用で運用復帰を果たす事となったのです。離脱から暫く経っていた時期でしたが,他の205系らと共通の運用に就き変わらない運用を果たしたのでした。このSM718運用は1日で運用が終了するダイヤであった事からも1日限りのものと思われましたが翌13日,14日にも運用に就き,N9編成復帰・N11編成到着までを繋ぐ事となったのでした。また,この際のM6編成は既に広告が全て外されていた中での復帰であり現場としても想定外の事態だった事もあり広告は無いままで緊急避難用の案内と路線図だけがある状態での運用となっていました。

終わりに

M6編成の復帰はE131系がやって来ない事に加え線内にいるE131系の故障を要因とする復帰でありその仕様からも想定外のものであった事が考えられます。この後M6編成はN11編成が到着する事もあり2月14日を最後に完全に離脱し3月4日にM16編成共々廃車回送され姿を消したのでした。

103系3000番代で最後まで残存していたのはどの編成だったのか

1985年にそれまで仙石線で運用されていた72系970番代を改造する形で導入された103系3000番代。そんな103系3000番代ですが,JR東日本の103系淘汰でも比較的後半まで生き残っていました。では103系3000番代で最後まで残存したのはどの編成だったのでしょうか。

103系3000番代のルーツは仙石線に有り

有名な話ではあるものの,元々103系3000番代は最初から103系として製造された訳ではありませんでした。元々は72系970番代を名乗っており,その名からも分かる通り旧型国電72系の一族でした。しかしながら車体は103系のATC対応の高運転台車と同じ仕様の車体更新車で他の72系とは異彩を放つ存在でした。同様の手法によって登場した車両に62系が存在しますが62系の種車には元63系の車両も含まれていたのに対し72系970番代は最初から72系として製造された車両を種車としています。

これら72系970番代は各地から集められた72系を改造し4両編成を5本改造した上で仙石線に導入,それまで活躍していた戦前製の強力型とも呼ばれたクモハ54・クハ68を置き換え,仙石線のサービス向上に貢献します。置き換え相手の運用の事もあり72系970番代は主に快速・特別快速の運用を中心に活躍し他の72系が103系により1980年までに引退した中にあっても引き続き活躍を続け,1985年を持って全ての編成が仙石線から去りました。

その頃,川越線では電化工事が着々と進められており9月30日の電化完成を目指していました。しかし電化するとなると必要となるのが電車です。丁度仙石線には旧型国電とはいえ103系と同じ車体の車両が留置されておりこれを種車に103系を用意することとなったのです。電動車には103系の予備部品を浮かした物を,制御車・付随車には101系の廃車発生品を利用する事で72系970番代を新性能化し103系3000番代へ生まれ変わることとなったのです。

画像出典 裏辺研究所 デューク様

103系3000番代で最後まで残存した編成

103系3000番代で川越線に直接配置された編成は3両×5本の15両でここから抜かれたサハ103-3000は青梅線に配備され増結車として運用されることとなります。これら103系3000番代は仙石線時代と同じ車体のままの為半自動ドアも取っ手仕様でかつ非冷房のままという仕様でした。この状態で暫く運用されましたが1990年代にAU712によって冷房化され,ようやく冷房化が達成されます。1996年には八高線電化と共に既に休車となっていた豊田所属のサハ103-3000を組み込み再び完全4連化を迎えました。この際,首都圏の純正103系が転属し103系3500番代として転属した事により川越線103系は4連6本体制となりました。

時代は21世紀に入るとJR東日本管内での103系置き換えが急速に進んで行きます。この103系淘汰の急速推進の契機となった総武線の103系が21世紀の始まりと共に引退し,103系3000番代のルーツとなった仙石線でも2004年7月に103系が引退し遂に置き換えは川越線に及ぶのです。最初は205系3000番代によって置き換えられますが最終的には209系3100番代が置き換えていくのです。103系3500番代も含めた置き換え順は以下のようになります。

ハエ54編成→2003年12月3日

ハエ51編成→2004年10月8日

ハエ55編成→2004年11月13日

ハエ56編成→2005年4月2日

ハエ52編成→2005年5月25日

ハエ53編成→2005年10月18日

最後まで残った103系3000番代であるハエ53編成は10月2日にさよなら運転を行い引退しましたが10月12日に後継となる205系3000番代の1編成が故障した事を受けハエ53編成が1日限りではありますが復活し,その後10月18日に廃車となった事で103系3000・3500番代は消滅する事となったのでした。

終わりに

103系3000番代は72系970番代から生まれ変わって川越線,及び後に電化された八高線で活躍を続け20年間の活躍をしました。最後の編成であるハエ53編成が廃車となった時が日本における旧型国電の営業が実質的に終わったと言えるのかもしれません。