徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

205系3100番代M6編成は何故復帰したのか

205系3100番代のM16編成が1月28日に引退してから間もない1月31日,最後までHID灯のままで残っていたM6編成が引退しこれで205系3100番代はLED灯の車両で揃います。しかし2月14日,M6編成は突如として復帰する事となります。一体何故だったのでしょうか。

M6編成の急遽復帰

E131系800番代の導入が進んでいく中でもHID灯を維持して残っていたのがM6編成でした。同編成はM5編成が2025年12月に廃車となって以降最後のHID灯の編成として残存し孤軍奮闘を続けていました。しかし同編成も1月31日付けで運用を離脱し後は廃車回送を待つばかりとなりました。

ところが同編成を置き換える予定となっているN11編成がいつまで経っても仙石線へやって来ないという事態に陥ります。丁度この時期,新潟県・群馬県境の上越国境付近では大雪に見舞われており上越線の運行の混乱が続いていました。この混乱の煽りは廃車回送中だったM3編成+M19編成が高崎駅で抑止を喰らう事となり牽引していたE493系を切り離して暫く留置される事態になったのです。この煽りを受けた事によりN11編成が新津から発車することが出来ず抑止され続けたこともありN11編成が仙石線にやって来ないという事態になったのでした。その結果,M6編成は宮城野に留置され続ける結果となり構内移動を繰り返す事となります。

このようにE131系の入線・205系の廃車が天候の混乱により予定通りに進まない中である問題が発生します。M16編成を置き換えたN9編成が車内灯の故障を引き起こし暫くの離脱をせざるを得なくなったのです。後継のE131系がやって来ない事に加えN9編成の離脱により列車の運休を避ける為にも東北本部は決断を下す事となります。それは既に離脱をしていたM6編成を緊急的に復帰させN9編成が復帰するまで一時的に穴埋めを行う事になったのでした。

2月12日,M6編成はSM718運用で運用復帰を果たす事となったのです。離脱から暫く経っていた時期でしたが,他の205系らと共通の運用に就き変わらない運用を果たしたのでした。このSM718運用は1日で運用が終了するダイヤであった事からも1日限りのものと思われましたが翌13日,14日にも運用に就き,N9編成復帰・N11編成到着までを繋ぐ事となったのでした。また,この際のM6編成は既に広告が全て外されていた中での復帰であり現場としても想定外の事態だった事もあり広告は無いままで緊急避難用の案内と路線図だけがある状態での運用となっていました。

終わりに

M6編成の復帰はE131系がやって来ない事に加え線内にいるE131系の故障を要因とする復帰でありその仕様からも想定外のものであった事が考えられます。この後M6編成はN11編成が到着する事もあり2月14日を最後に完全に離脱し3月4日にM16編成共々廃車回送され姿を消したのでした。

103系3000番代で最後まで残存していたのはどの編成だったのか

1985年にそれまで仙石線で運用されていた72系970番代を改造する形で導入された103系3000番代。そんな103系3000番代ですが,JR東日本の103系淘汰でも比較的後半まで生き残っていました。では103系3000番代で最後まで残存したのはどの編成だったのでしょうか。

103系3000番代のルーツは仙石線に有り

有名な話ではあるものの,元々103系3000番代は最初から103系として製造された訳ではありませんでした。元々は72系970番代を名乗っており,その名からも分かる通り旧型国電72系の一族でした。しかしながら車体は103系のATC対応の高運転台車と同じ仕様の車体更新車で他の72系とは異彩を放つ存在でした。同様の手法によって登場した車両に62系が存在しますが62系の種車には元63系の車両も含まれていたのに対し72系970番代は最初から72系として製造された車両を種車としています。

これら72系970番代は各地から集められた72系を改造し4両編成を5本改造した上で仙石線に導入,それまで活躍していた戦前製の強力型とも呼ばれたクモハ54・クハ68を置き換え,仙石線のサービス向上に貢献します。置き換え相手の運用の事もあり72系970番代は主に快速・特別快速の運用を中心に活躍し他の72系が103系により1980年までに引退した中にあっても引き続き活躍を続け,1985年を持って全ての編成が仙石線から去りました。

その頃,川越線では電化工事が着々と進められており9月30日の電化完成を目指していました。しかし電化するとなると必要となるのが電車です。丁度仙石線には旧型国電とはいえ103系と同じ車体の車両が留置されておりこれを種車に103系を用意することとなったのです。電動車には103系の予備部品を浮かした物を,制御車・付随車には101系の廃車発生品を利用する事で72系970番代を新性能化し103系3000番代へ生まれ変わることとなったのです。

画像出典 裏辺研究所 デューク様

103系3000番代で最後まで残存した編成

103系3000番代で川越線に直接配置された編成は3両×5本の15両でここから抜かれたサハ103-3000は青梅線に配備され増結車として運用されることとなります。これら103系3000番代は仙石線時代と同じ車体のままの為半自動ドアも取っ手仕様でかつ非冷房のままという仕様でした。この状態で暫く運用されましたが1990年代にAU712によって冷房化され,ようやく冷房化が達成されます。1996年には八高線電化と共に既に休車となっていた豊田所属のサハ103-3000を組み込み再び完全4連化を迎えました。この際,首都圏の純正103系が転属し103系3500番代として転属した事により川越線103系は4連6本体制となりました。

時代は21世紀に入るとJR東日本管内での103系置き換えが急速に進んで行きます。この103系淘汰の急速推進の契機となった総武線の103系が21世紀の始まりと共に引退し,103系3000番代のルーツとなった仙石線でも2004年7月に103系が引退し遂に置き換えは川越線に及ぶのです。最初は205系3000番代によって置き換えられますが最終的には209系3100番代が置き換えていくのです。103系3500番代も含めた置き換え順は以下のようになります。

ハエ54編成→2003年12月3日

ハエ51編成→2004年10月8日

ハエ55編成→2004年11月13日

ハエ56編成→2005年4月2日

ハエ52編成→2005年5月25日

ハエ53編成→2005年10月18日

最後まで残った103系3000番代であるハエ53編成は10月2日にさよなら運転を行い引退しましたが10月12日に後継となる205系3000番代の1編成が故障した事を受けハエ53編成が1日限りではありますが復活し,その後10月18日に廃車となった事で103系3000・3500番代は消滅する事となったのでした。

終わりに

103系3000番代は72系970番代から生まれ変わって川越線,及び後に電化された八高線で活躍を続け20年間の活躍をしました。最後の編成であるハエ53編成が廃車となった時が日本における旧型国電の営業が実質的に終わったと言えるのかもしれません。

仙石線に関わったトイレの歴史とは

現在でこそ仙石線の列車の全てにはトイレが設置されていますが,そのような状態が本格的に始まったのは2002年の205系3100番代がデビューした時の事でした。それまでの仙石線のトイレ事情はどのような状態だったのでしょうか。

仙石線とトイレ

仙石線はその経緯かつ線路規格が高かった事もあり早期の段階から他線区で余剰となった車両を転用することにより車両の確保を図っていました。しかしこれらに共通していた事はトイレが設置されていなかったという事。他線区の車両を半自動ドア化を除けばほぼそのまま転用するというスタイルであったためトイレの設置など到底ない状況でした。仙石線は短距離輸送も担う反面,仙台〜石巻間の長距離輸送も同時に行う二面性を持つ路線であり長時間乗車し続けるという事が日常的であり古くより仙石線車両へのトイレ設置を要望し続けていました。

そのような状況が変化するのは1950年代末の事。当時仙石線管理所として仙台鉄道管理局の直接の経営から独立した状態となった仙石線では駅へのトイレ設置には費用がかかるとして見送る代わりに車内に付けようとした結果クハニ19など一部の車両がトイレ付きとなりこれが仙石線初のトイレを設置した車両となります。しかしながらこのトイレ設置車両は72系などトイレが設置されていない後継車両の登場により置き換えられることとなり仙石線は再びトイレの無い車両が闊歩する路線となってしまいました。そこからおよそ40年に渡り仙石線のトイレ事情は冬の時代を迎えることとなります。

時代は変わり仙石線も新性能化の時代を迎えることとなります。当時仙石線で主に運用されていたのは103系でしたが103系も元を正せば首都圏で活躍していた通勤型車両。長距離需要を大きく考慮されていない設備でしたのでトイレなんて設備はありませんでした。1990年には内外装を大きく変化させた2代目の103系ではあったものの,ここでもトイレの設置は見送られており,その結果仙台駅などの主要駅では「仙石線の電車にはトイレの設備がございません」というような案内がそこかしこに貼られ予めトイレを済ましておくように呼びかけていました。変わらず仙石線の電車へのトイレ設置問題は深刻であり地元新聞の投書でもJRからは消極的な反応が返ってくるばかりだったとも言われており,ついに行政側からの勧告を受けることとなってしまいました。

これを受けたJRは遂に重い腰を上げ103系淘汰用に導入されることとなった205系3100番代ではトイレを設置する事を決定。この決定に沿線民は大いに喜び河北新報などでもトイレ設置を大々的に宣伝している程で仙石線の新型車両の話題はトイレ設置が一番大きかったともされています。205系3100番代から襷を繋いだE131系800番代でも変わらずトイレの設置が行われています。

終わりに

仙石線のトイレ問題は古くから行われており改善を開始したのは1960年代の事でしたが17m車の淘汰と共に終了,長い冬の時代を迎えます。その状態を完全に打ち砕いた205系3100番代は仙石線史上においても最大級の歴史の転換点の1つと言えるかもしれません。

仙石線車両の運行期間はどれくらいなのか

仙石線が1944年に国有化されてから80年以上が経過し,その間にも様々な車両が運用され去っていきました。そんな仙石線車両の運行期間はどれくらいだったのでしょうか。以前にも同じような内容の物を記述しているものの,今回は国有化後に登場した国鉄製造の車両に絞りたいと思います。

旧型国電車両の運行期間

1944年に仙石線として国有化された時に運用されていたのは宮城電気鉄道以来より所属していた24両の車両で,1946年に宮城電気鉄道が発注し国鉄が買い取ったモハ814〜814を含めた28両が宮城電気鉄道車両として運行がされていました。

そのような状況が変化したのは1947年のことで,モハ30とクハ65がそれぞれ1両ずつ入って来ました。この系列が転属して来るのは買収私鉄としてはかなり早い方でこれは宮城電気鉄道が余裕を持った規格で敷設したこともあり大きな改良を加えることなく導入することが出来たことに起因します。1947年導入車は少数に留まったものの,翌年より続々と17m車両が入線し50年代迄にモハ800形系列を除いたすべての宮電型を置き換え,残る800形も1965年までに置き換えたことで仙石線はこれらの系列が主力となりましたがこの頃には同形式も経年による老朽化が激しくなり20m4扉の72系と20m3扉のクモハ54によって置き換えられ同系列が主力となりました。

ここからは旧型国電系列の運行年間となります。

・モハ30・モハ31・モハ50(クモハ11・クモハ12)→1947年〜1967年 19年

・クモハ41→1963年〜1966年 3年

・72系→1966年〜1980年 14年

・クモハ54・クハ68・モハ70→1966年〜1977年 11年

・72系970番代→1975年〜1985年 10年

72系の場合,63系改造車などを含めた通常仕様車両と車体更新車である72系970番代を別記としたものの,同じ系列として見ると1966年〜1985年と18年間運用されたこととなります。

103系3000番代になった後の72系970番代。

画像出典 裏辺研究所 デューク様

新性能車両の運行期間

1979年2月より導入された103系より仙石線に新性能車両が入線することとなります。103系はそれまで運用されていた72系を1979年〜1980年の1年間で置き換え,残った72系970番代も1984年〜85年にかけて置き換えた事により仙石線の新性能化を完了されました。この時点で103系16編成が在籍していましたがその内の1編成を分割し105系とした事で103系と105系の2形式体制となります。一方で103系は特に古い編成が大半を占め老朽化が進行していた事により1990年より仙石線向けの特別更新を行った103系を導入し103系を置き換えて行くこととなりました。1998年には105系を置き換えるために高運転台の103系2編成を転属させ105系を置き換えた事により仙石線は再び103系で揃えられました。

しかしこの時期よりJR東日本では103系の淘汰を推進して行くこととなり仙石線でも更新された車両が運用されていたものの103系置き換えの対象となり2002年より205系3100番代を導入し置き換えていきました。これにより仙石線はトイレ付きの205系3100番代で揃えられ,復活した103系を2009年に置き換え,以後震災によって2編成が廃車となりつつも安定した時代が続きます。205系3100番代も仙石線の沿線環境もあり老朽化が進みE131系800番代により置き換えられ,現在に至っています。

・103系(初代)→1979年〜1994年 15年

・101系1000番代→1986年 1年

・105系→1987年〜1998年 11年

・103系(2代目)→1990年〜2004年,2006年〜2009年 17年

・205系3100番代→2002年〜2026年 23年

・E131系800番代→2025年〜

終わりに

仙石線が国有化されて以来運用された形式は12形式に上り,さらに広げると17形式の車両が運用されていました。形式として入れ替えなく20年以上に渡り運用されていたのは現状は205系3100番代のみとなっていますがE131系800番代はどのくらいの時期運用される事になるのでしょうか。

205系3100番代は何処へ廃車回送されたのか

6月をもって郡山総合車両センターに残っていた最後の205系3100番代であるM18編成の解体が完了し郡山総合車両センターにおける205系3100番代の解体が全て終わりました。しかし現在も尚解体を待ち続ける205系3100番代は存在しています。そんな205系3100番代全19編成は何処へ廃車回送されたのでしょうか。

205系3100番代の廃車

205系3100番代が最初に廃車となったのは2011年3月12日の事で,東日本大震災の津波により甚大な被害を受けたM9編成が最初でした。同編成の被害は甚大であった為復帰は不可能と判断され翌日に除籍,5月に解体されています。一方で同じく津波の被害を足回りに受けたM7編成は足回りを取り替えの上で復帰をすることが考えられており足回りを取り替える為総合車両製作所横浜事業所へ送られたものの,仙石東北ライン開業を見計らった運用の変更が行われた事によりM7編成を復帰させるまでもなくなった事により解体されています。

以後10年間廃車の無かった205系3100番代でしたが2024年にM4編成が運用数減少に伴う余剰廃車となった事を機に廃車が再開,翌年3月にはマンガッタンライナーⅠことM8編成,11月よりE131系による代替としてM10編成が置き換えられたことで本格化し翌年3月26日のM1編成の廃車をもって205系3100番代は全編成が廃車となりました。

205系3100番代が廃車回送された場所

205系3100番代は大きく分けて震災廃車による廃車,郡山総合車両センター,秋田総合車両センターと3つの廃車パターンが存在します。震災廃車はM9・M7編成に限り,郡山総合車両センターは初期に置き換えられた編成を中心に該当します。最初は殆どが郡山総合車両センターへ廃車回送されていましたが,205系3100番代の置き換えは今までに例を見ないペースであったことから郡山の容量が次第に追いつかなくなるという都合からか途中より秋田総合車両センターへ回送されるようになり以後は郡山と秋田を反復横跳びするかのように廃車回送されていました。以降はその一覧になります。

・M9編成→現地解体

・M7編成→北館林荷扱所

・M4編成→郡山総合車両センター

・M8編成→郡山総合車両センター

・M10編成→郡山総合車両センター

・M15編成→郡山総合車両センター

・M2編成→郡山総合車両センター

・M5編成・M11編成→秋田総合車両センター(首都圏経由)

・M3編成・M19編成→秋田総合車両センター(首都圏経由)

・M17編成→郡山総合車両センター

・M12編成→郡山総合車両センター

・M6編成・M16編成→秋田総合車両センター(首都圏経由)

・M14編成→秋田総合車両センター(北上線経由)

・M13編成→秋田総合車両センター(北上線経由)

・M18編成→郡山総合車両センター

・M1編成→秋田総合車両センター(北上線経由)

結果として郡山での廃車は8編成,秋田での廃車が9編成という結果になりました。

終わりに

205系3100番代が全車廃車となって久しい現在ではありますが,郡山での解体が完了したという新たな分岐点を迎えました。今後は秋田総合車両センターでの解体が進むと思われますが電気機関車がまだ多く残っている事からも解体完了はまだ先のことになりそうです。