徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

日本初の旅客用地下駅・宮電仙台駅はどのような歴史を辿ったのか

現在の仙石線仙台駅は他のJR線からは離れた地下ホームの9・10番線から発車しますがかつては地上駅、さらにその前にはなんと地下駅でした。この仙台駅の初代地下ホームはどのような歴史を辿ったのでしょうか。

歴史を開いた地下駅

1925年に開業した宮城電気鉄道ですが当初は仙台市の中心部や市役所まで路線を延ばす計画がありました。しかし,地上ともなるとこの区間には既に市電計画があり開業すれば宮電と市電で競合になるだろうという事が想定されていたのです。この延伸を想定していた時期に高田商会が外国人技師を招き現場へ案内した事がありました。この技師に対して仙台駅やそこから市役所へはどのような経路を辿るのが良いか、と尋ねると,その技師は「By tube!(地下鉄で!)」と答えた事をきっかけとし東七番丁〜市役所間は地下区間とする方向へ進めますが,先述の通り仙台〜市役所間は市電との競合が懸念された事、さらには予想以上の工事費用の増大により市役所延伸計画は放棄、仙台駅までとしたのです。実際資金繰りに悩んだ事を伺えるのがこの地下駅にはありました。本来は複数のホームを設けたターミナル駅とする計画だったのですが、複線断面であったトンネルに,片側をホーム、もう片側を1線とした方式に変えられます。また,国から免許を取るのにも困難があり,当時地下の路線なんて東京〜東京中央郵便局までの貨物線がただ1つだけ,しかも旅客用ともなれば前代未聞であった事から国はとても難色を示したという話が残っていますが,この地下駅案は新技術の発案という意味を込めて免許を許可します。こうして日本で初めての旅客用地下駅,宮電仙台駅が完成したのです。

小さい規模だが装飾は荘厳だった

本来とは違う形となったとはいえ無事に仙台地下駅が開業しました。この仙台駅は荘厳な装飾であったと言われ洋風のアーチ状の柱に、壁面を薄緑,橙色に塗ったニューヨーク市地下鉄77丁目駅を参考にしたと言われる豪華なホームが宮電仙台のホームとなりました。この地下駅はたちまち宮城県を代表する鉄道建築の一つとなり宮城県の観光要素ともなったと言えましょう。1944年には国有化されますがこの地下駅は引き続き残されましたが1つの問題を抱える事となります。

画像出典 Wikimedia commons

駅から通路へ

仙石線の列車本数が増加するにつれ開業当初の設備の小ささは次第に問題となりつつありました。この地下駅へ入る為に東七番丁(仙台東口)〜仙台間で単線となる為ダイヤを作る上でも,運用にあたってもネックであった事は事実でした。1952年,第七回国体が開かれる事となりこれに乗じて仙台駅は遂に抜本的な改良が施される事となります。まず,ネックとなっていた地下区間は廃止。仙台東口駅付近に仙石線の仙台駅を設け代わりの仙台駅とし、仙台東口〜(旧)宮電仙台間は廃止にする、という物でした。しかしこの地下トンネルはまだ使用が可能である、と判断され、線路を撤去した後に壁を設置し塞いだ上で東北本線ホームと仙台ホームを繋ぐ連絡通路へと変えられます。この時はホームの一部もそのまま流用されましたが昭和40年代までに撤去、1988年に仙石線が全通60周年を記念し壁面へ仙石線の路線を描いた壁画が描かれ通路を彩りました。しかし立体交差化工事が終わると仙台駅の地上駅と共にこの地下通路も役目を終えます。ここに「宮電仙台」駅は完全に役目を終えたのでした。宮城電気鉄道が開業して74年後の事でした。

終わりに

宮城電気鉄道の先見性の象徴とも言えた仙台地下駅。東北本線改札への地下通路としてその大半を過ごしましたが地下通路になっでも宮電の意志が残っていたようにも感じられました。再び仙石線の仙台駅は地下に潜りかつての仙台駅から遠く無い場所に新たにあおば通駅が開業しています。