徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

仙石線は何故国電と呼ばれたのか

JRになった現在では,JR線と呼ぶ事が多くなり国電という単語を耳にする事は殆ど無くなってしまいました。かつてJR東日本がE電を普及させようとしたのも今は昔の話です。実は昭和の頃,仙石線は地元民からは国電と呼ばれていたのです。一体何故なのでしょうか。

そもそも国電とは

そもそも国電とは,国鉄時代に大都市近郊,特に首都圏や大阪都市圏を走る近距離通勤電車につけられた愛称です。似たような物にゲタ電と言うものもありますがこちらは気軽に乗れる列車,と言う意味合いの方が強く国電とはまた別に考えられそうです。特に首都圏で国電の名は普及し私鉄との乗り換え駅やターミナル駅などでは私鉄から国鉄への乗り換え改札などに国電の表記がよく見られました。そんな国電を代表する車両とも言えたのが101系や103系と言った高度経済成長期に製造された通勤型車両。これらは国電の定義とも言える都市近郊区間に行けばどの路線でも見られるような標準的な通勤型車両でした。1987年に国鉄が分割・民営化されると国電という愛称は全く使われなくなりJR東日本ではE電や単にJR線,JR西日本ではアーバンネットワークとその名を改めました。

日本最北の国電

首都圏で積極的に使われた国電の愛称ですが実はそれ以外にも国電と言われた路線が存在しました。それが仙石線。予め言っておくと,仙石線は首都圏からは大きく外れた東北地方の路線である為,国電区間に含まれた事は一度もありません。では何故国電だったのでしょうか。首都圏と同じ車両が走っていた,というのも一つに挙げられます。仙石線の高度経済成長期の車両は72系。首都圏では仙石線に配置が始まった頃には置き換えられつつありましたがそれでも常磐線などの路線ではまだ運用されていました。また103系も仙石線に導入され始めた頃はまさに最前線で運用されていました。これ以外にも色々な要因もありましたが最大の要因と言えるのは東北本線と比較して都市型のダイヤが古くより構成され,全ての列車が電車で構成されていたからと言えそうです。東北本線では1970~80年代初頭には特急はつかりやひばりと言った特急列車,さらには急行まつしまやくりこまのような急行列車が沢山走っており優等列車街道でした。一方,普通列車の数は少なく一本の普通列車に大勢の客が乗るというのが当たり前でした。しかも特急や急行に電車は多く運用されていましたが普通列車は客車列車と気動車で構成されていました。普通本数が少ない事により一度で大勢の客を乗せる為に車両の長さも長大化し常磐線では15両編成の客車普通列車が運用されるという事態でした。1980年の時刻表を読み解くと,仙台駅下り青森方面の列車は58本ありますがそのうち普通列車に相当する列車は27本。今に比べれば非常に少なく,優等列車の比率の方が多い時代でした。使用車両も利府行に417系が使用される以外は全てが客車,陸羽東線に直通する列車が気動車という状態でした。一方同じ頃の仙石線では東北本線とは全く違うルーツを持つという事もあり運用列車の全てが電車でありダイヤにおいても都市型電車に相応しいダイヤがこの時には既に構成されていました。こちらも1980年の時刻表を読み解くと仙台駅下り石巻方面行きの列車は76本。その内全て普通列車,一部時間帯に1本ずつの快速列車が運行されているという物で本数も優等列車主体の東北本線がラッシュ時間帯でも優等列車の方が多く占め普通列車が圧倒的に少ない状況でしたが,仙石線ではラッシュ時間帯に高頻度で電車を走らせていました。この事からも古くから仙石線は待たずに乗れる電車,車両も相まって地元民からは国電と呼ばれる期間が長く続いたのです。1985年には東北本線でも優等列車が殆ど廃止され線路に余裕が出た事から東北本線でも電車型ダイヤへ移行する事となり客車普通列車が全廃し電車による普通列車が次々と走り始め,グリーンライナーと呼ばれる車両が台頭し始める事となりました。

画像出典 Wikimedia commons 永尾信幸様

終わりに

現在,東北本線でも電車が主体となり仙石線だけが国電と呼ばれるという事殆ど聞かなくなりました。しかし仙石線を国電と呼んだ文化はとても根強かったようで,現在でも沿線の高齢の方の一部は東北本線を汽車,仙石線を電車と呼ぶという風潮が残っています。