徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

みちのく美人と呼ばれた電車

現在の仙石線の前身でもある宮城電気鉄道は当時の地方私鉄でも積極的な経営を行っており、阪急等でも見られた沿線開発に力を入れ、松島海岸や野蒜海岸の開発は今見ても目を見張るものであったと思います。車両面に関しても早い段階で半鋼製車両が投入されるなどの積極性も見られました。そんな宮城電気鉄道でも一際目を見張る電車が存在していました。

宮電の集大成

その名は宮城電気鉄道モハ800形。モハ801,クハ880,モハ810の形式を総称した車両で宮城電気鉄道の歴史でも晩年にあたる1937年に登場しました。半鋼製,全長15mの小型車体ながらも半流線型の均衡の取れたデザイン、大型窓、それまでの少々無骨な宮電車両から大きく変わったその均衡の取れた端正なデザインが大きく話題となり、当時の鉄道ファンからは「みちのく美人」とも称された宮電生粋の名車と言えましょう。さて、大型の側面窓を持って登場したのには、宮電線の顔とも言えた優等種別、急行への使用を念頭に置いていたからと言えます。車内も宮電の顔を担う列車に相応しい物となりドア間に並ぶ座席もクロスシートが多く並ぶ仕様となっており、まさにその姿は宮電ロマンスカーを呈していました。モハ800形系列は合わせて11両が製造され、宮電最大勢力となりました。しかし、これは宮電として発注したモハ810が、国有化後に国鉄として導入された分も含まれ、この数が揃ったのは国鉄になった後の話となります。

国有化とみちのく美人の終わり

1944年、宮城電気鉄道は国有化され仙石線になりました。7両(+4両)のモハ800形は全て国鉄の所有物となりました。1946年にはモハ810も合流し、1953年には称号規定改定によりモハ2320形と名を改め、1959年にはクモハ2320と形式が改められました。1952年には807が宇部線へ転用されましたが、それ以外は他の私鉄に譲渡される事無く全て仙石線に生涯を捧げる事になります。最終的に仙石線からクモハ2320が廃車となるのは1964年、広島鉄道管理局に移った807が幡生工場での入替車両となった後に1965年に廃車、「みちのく美人」の血統はここに潰える事になりました。

終わりに

宮電が威信を懸けて製造したモハ800。戦前の地方私鉄の名車の一つとして名の挙げられる同車は、大半が最後まで仙石線に生涯を捧げ、消えて行きました。何処か別の地方私鉄でも活躍するモハ800も見て見たかった物ですが今ではもう叶わぬ願いとなってしまいました。