徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

205系3100番代M9編成を振り返る

本日,2024年3月11日は2011年の東日本大震災発生の日から13年の節目を迎える日です。あの日の津波で仙石線でも甚大な被害を受けました。今回は震災の津波により脱線,廃車となってしまった205系3100番代のM9編成を振り返りたいと思います。

M9編成の基本概要

205系3100番代の中のM9編成は両先頭車が埼京線出自のドア窓が大窓の車両で,両側が埼京線から転属して来た物としては仙石線では同編成が初となります。2003年に転属して来た同編成が置き換えた103系はRM-90編成。RM-90編成の廃車により仙石線における103系のクモハ車は残り1編成となっています。そして2000年代の終わりにATACSに関する機器を搭載し識別番号が両先頭車の前面窓下部に貼られました。ATACSの機器が載せられて以降は大きな変化も無く仙石線を走り続けました。

画像出典 Wikimedia commons 永尾信幸様

あの日…

2011年3月11日の日,M9編成はいつものように運用に就いていました。そして14時46分,同編成は石巻まで向かう快速列車(M16編成使用)と交換を行い,仙石線の普通・あおば通行として快速列車と同時に野蒜駅を発ちました。野蒜駅を発車した直後,列車へ非常に大きな揺れが襲います。そう東北地方太平洋沖地震がこの時発生したのです。両列車は列車無線を受け緊急停止。M9編成充当の普通列車は野蒜駅から東名方へおよそ700mの位置に緊急停車を行いました。そして東松島市一帯に大津波警報が発令されると同編成の乗客およそ40名の避難が開始されます。この時,JR東日本の内規では大津波警報が発令された場合は最寄りの避難所へ避難する事が記されており普通あおば通行では内規に従い乗務員は最寄りの指定避難所である野蒜小学校へ乗客を誘導させます。避難が済んだその直後,残ったM9編成へ津波が押し寄せます。M9編成は脱線し大破しました。特にあおば通方モハと石巻方モハを境に列車は真っ二つに分かれ石巻方ユニットが民家に当たりM9編成はL字型に破壊されてしまいました。そして避難した先の野蒜小学校にも津波が押し寄せてしまいます。結果乗客が1人亡くなり,安否確認が出来た乗客は20名程だったそうです。このM9編成を使用した普通列車がL字型に脱線・大破した映像は全国ニュースで流され全国に大きな衝撃を与えました。後にこのM9編成は翌日付けで廃車,5月までに現地で解体されています。

後書

あの日から13年のこの日,M9編成を改めて思い出し津波の恐ろしさ,そしてこの事を未来へと,後世の人々へ伝える為にもこの記事を作成致しました。改めまして,震災で犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈りすると共に被災地の一日も早い復興を心よりお祈り致します。

仙石線103系には何故乗務員実扉横に戸袋窓がある車両とない車両があるのか

103系の多くは乗務員扉の横に戸袋窓が1つ配置されている車両が多く,低運転台の車両の大半が乗務員室横に戸袋窓が存在していました。しかし中には低運転台ながらない車両も存在しており仙石線の物もその一つと言えます。

戸袋窓が無い103系

そもそも戸袋窓とは,103系が登場した当時はまだ車内灯を日中に付ける機会は多くはなく,消している時も多々ありそういう時の為に戸袋に窓をつけて外界からの明かりを確保していました。1970年代や80年代の通勤電車の多くで戸袋窓が採用されており東武8000系や相鉄6000系のように徹底した軽量化を理由に戸袋窓を設けなかった例もありましたが殆どは通勤電車に戸袋窓が存在しており,それが一般的だったのです。しかし時代が移り変わるにつれ戸袋窓を必要とせずとも採光出来るようになりむしろ戸袋窓を無くす事で軽量化やメンテナンスの容易化が図れる事から戸袋窓は衰退していく事になります。103系に関しても例外では無く低運転台車の大半は全車に戸袋窓が付いていましたがJR化後,JR西日本では103系や201系の戸袋窓を埋める工事が行われており2000年代の時点で西日本の多くの103系から戸袋窓が消滅しています。

何故仙石線では乗務員扉横の戸袋窓が無い編成がいたのか

さて,本題の仙石線に戻すと,1979年に初めて仙石線に103系が配備された時に導入された103系は全て低運転台車でした。低運転台という事なので全てに戸袋窓があると思われますが実はこの時に導入された103系には乗務員室横の戸袋窓が埋められて入線しています。この事から何処と無くATC対応車のようにも見えてしまいますが埋められたのには訳がありました。103系が配備された当時,まだ仙石線ではタブレット閉塞が末端区間に残っていました。タブレットは金属製でありもしこれが乗務員室扉に当たって窓ガラスが破損すれば大変な事になります。その為,万が一の破損を防ぐ為にも仙石線では歴史上乗務員室横の戸袋窓を省略か網で覆った歴史を持っています。72系970番代のように防護用の鉄板が乗務員室横に設けられていましたが103系では埋めることで対処しました。1980年までに導入された12編成は全て戸袋窓が埋められてましたが1984年以降に970番代を置き換える為入線して来た物は導入時点でタブレット閉塞の使用が廃止されていた為戸袋窓は埋められずに入線しました。その為,同じ第一次転用車の間でも乗務員室横の戸袋窓がある編成とない編成が混在する事となったのです。

画像出典 Wikimedia commons Suikotei様

終わりに

タブレット閉塞を使用していた歴史上,仙石線103系の中にも乗務員室横の戸袋窓が無い編成とある編成が出て来ました。その後仙石線は戸袋窓がある編成で統一されますが1998年に京浜東北線から転属して来たATC対応の高運転台車が入線した事により再び混在する事になりました。

205系3100番代に譲渡の可能性はあるのか

先日,鶴見線で20年に渡り運用されて来た205系1100番代が定期運用から離脱し遂にJR東日本管内で定期運用を持つ205系は仙石線のみとなってしまいました。しかしその3100番代もいつまで持つか分からない状況となっておりそう遠くない置き換えが考えられます。では,置き換えられた時に同車は譲渡されるという可能性はあるのでしょうか。

205系が譲渡された前例

205系が譲渡されたという例として有名なのがインドネシアの首都,ジャカルタ都市圏への譲渡でしょうか。2013年より始まったインドネシアへの譲渡はその後7年間に渡って行われ,総勢800両以上に上る205系が譲渡されました。その出所は横浜線,埼京線,南武線,武蔵野線です。特に武蔵野線から譲渡された物に関しては原型顔に加えてメルヘン顔と言われる曲面ガラスを採用したデザインを採用しているのが特徴です。800両以上の大所帯である事から現在ジャカルタ都市圏で運用される通勤車の半分以上が205系である為かつての東京都市圏と似た光景が繰り広げられています。しかも編成長も8両や12両と,東京都市圏で運用していた頃に匹敵する長編成で運用されているのも特徴です。そして205系が譲渡されたもう一つの会社として有名なのが富士急行こと富士山麓電氣鉄道でしょう。同社では205系を6000系として運用させており3両編成7本が富士急行線の主力車両として運用されています。こちらについても複数のデザインが運用されており側面が2段下降式の量産先行車や八高線の元3000番代と合わせて3つの分類の6000系が運用されています。

3100番代が譲渡される可能性は

さて,ここで本題となる205系3100番代が譲渡される可能性はあるのでしょうか。先に結論を言うと同車が譲渡される事は無いと思われます。インドネシアへの譲渡に関しては現状中古車両の譲渡が出来ない状態である為ここで海外譲渡の可能性は外れると思われます。そして富士急行への譲渡については一見すると鶴見線と合わせて譲渡出来るのでは無いか,と思われるかもしれませんが残念ながらこちらも譲渡される可能性は低いと思われます。富士急に譲渡された6000系はクモハ-モハ-クハという編成を組んでいるのに対し鶴見線用でクハ-モハ-クモハと編成が逆を向いており仙石線用はクハ-モハ-モハ-クハという編成を組んでおり3両化にはさらに改造を加える必要があります。実際6700番代は仙石線用と同じ編成からさらに改造を加え以前に導入された従来車と同じ編成を組んでいます。また補助電源装置も現在残る205系と6000系とは別物で前者がSIV,後者がMGを採用しており元は同じ形式とは言え現在いる6000系と異なる仕様の車両をわざわざ富士急行が欲しがるとはそう感じられません。他にも3100番代の譲渡先は色々考えられますが,直流モーター車が減りつつある現代,脱直流電動車の動きが地方私鉄にも及んでおり出所が無いからと伊予鉄道のように自社で車両を発注する事例も現れている中、足回りの老朽化も著しい3100番代の譲渡の可能性は正直言ってとても薄いように感じてしまうのです。

終わりに

205系3100番代の譲渡先は色々考えられ,特に筆頭と言えるのは富士急と思われますが機器の老朽化や機器の違いから譲渡される可能性は薄いと考えられます。別の路線で第三の活躍をする3100番代を見たいとも思いますが現実はとても難しそうです。

宮城電気鉄道と松島電車の関係性とは

仙石線の前身である宮城電気鉄道は元々県庁前から松島までを結ぶ路線として計画されました。松島には既に省線と接続する松島電車という路面電車が存在していました。これら両路線は全く関係無いようで実は浅からぬ関係がありました。

宮電よりも先に電車運転を開始した宮城県初の電車

1922年に開業した松島電車は省線の松島駅から五大堂前の松島海岸停留所までの約4kmを結んだ路面電車で,開業した1922年より電車運転がされていました。これは元々松島電車が大崎水電の名義の元で建設された為でこの大崎水電の前身である遠田電気は遠田郡一帯に電力を供給していた会社でした。電力会社の名義であった為に初めから電気軌道として計画されていた為開業当初から電車運転をする事に成功したのです。開業した当初は省線の松島駅から出て松島海岸方面へ直接行ける事から多くの利用者に恵まれ年間に20万人が利用した時期もありました。しかし,1920年代後半になるとその利用者は年々減少し赤字続きとなってしまいます。

画像出典 「松島の昔と今」

強力な競合の登場と買収

一方,この頃仙台市内より直接松島まで電車によって結ぶ高速鉄道が松島電車を脅やかす事になります。それが宮城電気鉄道でした。宮城電気鉄道は東京の有力機械商社だった高田商会の後ろ盾を付けて計画され高田商会が経営していた細倉鉱山から出た亜鉛発電の余剰電力を利用する事により松島電車と同じ電車運転を計画し,実際に電車運転に成功します。1925年の開業当初は西塩釜まででしたが1927年には遂に松島へ到達します。松島電車はこの時点で宮電と競合する事となります。しかし,宮城電気鉄道は非常に強い競合相手でした。松島電車は元々省線の松島駅から出ており省線の列車から接続して松島海岸へ至るというルートでした。しかし宮電は仙台から1本,しかも最短ルートで松島海岸まで至る物で観光客はわざわざ遠回りをする省線+松島電車ルートよりもダイレクトに結べる宮電ルートを採る事は必然でした。松島電車は宮電の到達により一気に客を奪われてしまいます。その後松島電車は間接的に乗り入れていたのを直接松島駅へ乗り入れることによって経営を立て直そうとしましたが,それでも宮電には敵う事がありませんでした。遂に1938年,松島電車は営業休止へ追い込まれてしまいます。独力での再生が不可能となった松島電車はかつて同社の強大なライバルだった宮電に助けを求めます。監督官庁から任務を引き受けた宮電は松島電車の再興を検討します。内容として国鉄松島駅から新富山までを軌道から一般鉄道に変えて再開しようとしたものの、時代が許してくれませんでした。1944年,宮電の基幹線であった現在の仙石線が買収されると親も無くなってします。結局松島電車は営業休止のまま宮電と共に正式に廃止となってしまいます。

終わりに

宮電に先がけて電車として開業した松島電車は松島海岸地区に通った初めての鉄道として繁栄しましたが最後は宮電と共に消えて行きました。かつて松島電車が通った路線は現在道路等へ再利用されています。

205系3100番代はどの103系を置き換えたのか

205系3100番代が登場して既に21年以上が経過し,103系が一度仙石線から姿を消してから間もなく20年が経過しようとしています。では,205系の導入によってどの103系が置き換えられたのでしょうか。

クモハを組み込んだ編成から優先的に置き換えられた

205系3100番代が宮城野電車区(仙ミノ)に初めて配属されたのは2002年10月10日ですが,同編成が置き換えた初めての103系はクモハ103-145を含んだRM-145編成。以後,M7編成までの205系が置き換えたのは全て石巻方先頭車がクモハ車の車両でした。

M1編成→RM-145編成

M2編成→RM-136編成

M3編成→RM-137編成

M4編成→RM-67編成

M5編成→RM-138編成

M6編成→RM-155編成

M7編成→RM-94編成

M9編成→RM-90編成

M13編成→RM-128編成 (103系クモハ編成消滅)

M1編成から続けられたクモハ車の置き換えはM13編成を以て終了し,仙石線からクモハ103を組み込んだ編成は消滅しています。2003年8月の事です。そして,M5編成に置き換えられたRM-67編成のクモハ103-67はクモハ車で最古参で1967年5月生まれの車両でした。

画像出典 Wikimedia commons 永尾信幸様

M8編成より始まったRT編成の置き換え

そして2003年より導入が開始されたマンガッタンライナーⅠ世のM8編成より両先頭車がクハのRT編成も置き換えが始まります。M8・M10・M11・M12編成はまだクモハ車が残ってる中で置き換えましたがM14編成以後は全てRT編成の置き換えで2004年までに完了しています。

M8編成→RT-299編成

M10編成→RT-123編成

M11編成→RT-371編成 (高運転台車消滅)

M12編成→RT-213編成

M14編成→RT-139編成

M15編成→RT-107編成

M16編成→RT-131編成

M17編成→RT-105編成

M18編成→RT-235編成(休車)

M19編成→RT-235編成 (103系消滅)

2004年,103系が仙石線上から姿を消し205系で統一されましたが多賀城駅高架化による運用数増加に伴う車両不足で一番最後に離脱したRT-235編成が復帰します。しかし2009年にナハ48編成から再改造されたM19編成によって置き換えられ完全消滅となりました。この編成の廃車で最盛期は2000両以上を数えたJR東日本の103系が消滅したのです。また特筆するべき点として高運転台車である第三次転用車の2編成が低運転台車よりも先に置き換えられている点が挙げられます。仙石線は103系の歴史史上初めてとなる高運転台車の方が先に廃車となった路線でもあるのです。

画像出典 裏辺研究所 デューク様

終わりに

205系が置き換えたのは第一フェーズとなるM7編成迄がRM編成の優先的淘汰,第二フェーズのM8〜M13編成がそれぞれの淘汰,最終フェーズで残ったRT編成の淘汰という形になりました。近い時期に来ると考えられる205系の置き換えではどのような順番となるのでしょうか。