徒然なるままに仙石線

このブログでは仙石線に関するあれこれを解説、考察などをして行きます。

西塩釜駅付近の廃線のように見える歩道とは

本塩釜駅の1つ隣である西塩釜駅には仙石線の線路の下を通るように歩道が敷かれており,駅舎もそれを跨ぐようにして通路が配置されています。実はこの歩道は初めから歩道として整備されていた物ではありません。では,一体何なのでしょうか。

西塩釜駅ホーム上から捉えた物。

かつての貨物線

この歩道は実は廃線跡を活用している物でかつてはここに線路が敷かれていたのです。その廃線とは一体何なのでしょう。ここには1997年まで塩釜線という路線が伸びていました。しかし,塩釜線は旅客路線では無く貨物線で東北本線の岩切付近から現在の陸前山王駅,西塩釜付近を経由して塩釜埠頭,塩釜港までを結んでいました。実はこの塩釜線は仙石線よりも古参で現在の塩竈市へ一番最初に辿り着いた鉄道でもありました。開業は1887年のこと。まだ東北本線が日本鉄道の路線だった頃の話で日本鉄道の支線という扱いでした。1950年代までは貨物以外にも旅客輸送を行なっていましたが戦前には既に殆どが帰省臨時列車ばかりとなっていたそうです。仙石線とは下馬付近から並走する形となっていましたがこれは後々塩釜魚市場までの線路を復活させる時に仙石線へ西塩釜〜本塩釜間へ乗り入れる事を想定していた為でした。晩年の塩釜線は貨物の輸送だけで無く廃車車両の解体や留置を行う路線でもありました。以前にも紹介した101系の中間車やクモヤ90055の解体は塩釜埠頭駅で行いそれから車体を売却していました。しかしモータリゼーションが進行した事により輸送量は年々減少,最後の砦でもあった石油輸送も無くなると1994年には休止となります。そしてそこから復活する事は無く1997年に廃止となりました。この時,廃線跡は多くが残り,仙石線と並行していた下馬付近〜本塩釜付近の仙石線との並行区間に関しては塩竈市が歩道として整備し,塩釜線の線路等を西塩釜駅に保存,そして塩釜線を解説した碑を設けており塩釜線を現在に伝え続けています。

終わりに

現在,塩釜線として大きく残る名残である西塩釜付近の歩道。この区間以外にも実は塩釜線の面影は残っており,それが仙石線とも関わりがあるような物も少なくない物となっています。

仙石線歴代車両の在籍両数はどれくらいなのか

仙石線では国有化後,現在の主力である205系まで基本は首都圏から転用された車両が基本となっておりかつ本数を比較的多く抱える路線である為比較的多くの両数が所属していました。その両数は一体どのくらいの両数だったのでしょうか。

歴代車両の両数とは

今回も,以前にも紹介した歴代車両の在籍年数と同様に戦後,特にモハ800形以降で見ていきたいと思います。尚,両数はその形式の最多の両数がいた時期と致します。

・モハ800形族 11両(宮電時代に新製7両に国有化後に国鉄が購入した4両) 1937〜1964

・クモハ11・12族 41両(クハ16・クハニ19含んだ両数) 1947〜1967

・クモハ41 3両 1963〜1966

・72系 67両(そのうち970番代は20両在籍) 1966〜1985

・クモハ54・クハ68 12両(70系中間車含む) 1967〜1977

・103系 72両(第二次・第三次転用車の両数,第一次転用車は64両) 1979〜2009

・101系1000番代 4両(豊田からの借り入れ) 1986〜1987

・105系 4両 1987〜1998

・205系3100番代 76両(M19編成は南武線から再転属) 2002〜

・HB-E210系 16両(北ココ所属) 2015〜

このように纏めて比較してみると,72系以降の仙石線主力車両の両数が多くなっており72系,103系,205系が60両以上仙石線に所属していました。仙石線の歴史上でも最も多くの車両が在籍したのが205系で2004年までに導入された18編成72両と,多賀城駅高架化に伴う車両不足解消の為に復活したRT-235編成を置き換える為に導入された1編成を合わせた19編成体制で,計76両が最大で在籍していました。

終わりに

全体で比較してみると,仙石線管理所発足以前の所有は48両前後だったようですが,発足後から現代まではおおよそ60〜70両の所有となっているようです。もし今後後継車両が登場するならば概ね60〜70両前後の配置となりそうです。

仙石線103系の編成番号はどのような法則があるのか

1979年に最初の一陣が登場した仙石線の103系。その10年後にはこの第一陣を置き換える為の103系が導入されました。実はそれぞれの編成番号の付番は異なる物でしたがどのような法則があるのでしょうか。

1979年導入陣の編成付番法則

1979年,72系970番代を除く103系を置き換える為首都圏の各地から103系が転用されて来ました。この車両は80年迄に導入されましたが,その4年後に970番代を置き換える為にも転用されて来ました。この時に仙石線に転用されて来たのは全てがクモハが石巻寄りに付いており,後のように半々ではありませんでした。ここで編成番号を読んでみると,例えばクモハ103-1が石巻寄りにある編成はR-1編成という番号となります。冷房化改造をされたクモハ103-144が先頭車であればR-144編成となります。かつて首都圏で運用されていた時に列番を表示していた前面左側の表示器はこの第一陣ではクモハとクハの車番を貼っており列番表示としての機能は無かったとされます。これは103系から改造された105系もそうで98年の引退までだったそうです。

画像出典 Wikimedia commons 永尾信幸様

第二次・第三次導入陣の付番法則

1989年,非冷房かつ初期車の多かった第一陣の老朽化が激しくなり,同車の淘汰と冷房化によるサービスアップを目論み,関東から再び103系が導入される事となります。これが第二陣と呼ばれるグループです。これらの導入陣では第一陣でも存在したクモハ先頭車に加えクハの先頭車も転入して来ました。ここで付番法則は第一陣の物と異なって来ます。従来通り,編成の基準は石巻寄りの先頭車ですが,クモハとクハが混じる事から区別する必要がありました。ここでRの下にクモハ車はMotor,つまり電動車を意味するM,クハ車はTrailerを意味するTが付番されます。一例を挙げるとRM-155編成は石巻寄り先頭車がクモハなのでMと付き,RT-235編成ならば石巻寄り先頭車がクハなのでTとなります。番号も第一陣と同じく石巻寄り先頭車を基準に付番されておりRT-235編成は石巻寄りクハがクハ103-235となっています。後に105系を置き換える為に京浜東北線から転属して来た高運転台の第三陣も同様にRT編成を名乗っていました。車番は第一陣とは異なり元々列番表示として使用していた部分に種別幕を付けた為こちらは前面窓に記す事になりました。

画像出典 裏辺研究所 デューク様

終わりに

103系での付番方法は主に転入車の形態によって異なっていましたが両車とも共通して石巻寄り先頭車を基準としていました。現在の205系は番代も異なっている為改造順の車番かつ後部の車番も共通した物となっています。

マンガッタンライナー205系はどの編成が使用されているのか

登場から20年を超え,今なお仙石線の顔として活躍を続けるマンガッタンライナー。205系とHB-E210系と現有の仙石線車両全てが纏っていますが205系ではどの車両が使用されているのでしょうか。

205系ではどの編成が使用されているのか

まず,マンガッタンライナー一族の元祖といえる205系3100番代での使用編成を解説しましょう。それぞれマンガッタンライナーとしてラッピングを纏うのはM8編成とM2編成です。M8編成は現在まで続くマンガッタンライナーの初代で石巻市の掲げる「萬画の国いしのまき」をアピールする為仙台支社と手を組んで誕生したのがM8編成です。同車が他の編成と決定的に違うのは転用後M8編成として誕生した時からマンガッタンライナーとして運用されている所にあり他の編成よりもとても気合の入った仕様となっています。車内は石巻寄りのクハがM5編成以来の2Wayシートとなっており車内化粧板にも石ノ森氏のキャラクターが描かれており2Wayシート車にはドア間にイベント広告用のラックが設置されています。M2編成は登場当初は他の2Wayシート色でしたが2008年に仙台・宮城デスティネーションキャンペーンが開催され,その一環としてM2編成もマンガッタンライナーとなりました。M8編成との違いはM8編成が銀色の車体にキャラクターのイラストを張るという華やかながら何処か落ち着きも感じさせる物でしたがM2編成は車体も全面的にラッピングされよりカラフルなラッピングとなりました。一方車内については従来と変わらない仕様でしたがその代わり車内啓発ポスターはマンガッタンライナー仕様となっているのが特徴です。

マンガッタンライナー編成の出自

マンガッタンライナーで使用されたM2・M8編成ですがそれぞれが入線したのはM2編成が2002年の事でM1編成の搬入と近い時期に導入されました。編成は全車がドアが小さい小窓の編成の為全てが元山手線編成となっています。クハ205とモハ205が元ヤテ19編成,モハ204とクハ204は元ヤテ17編成で構成されています。一方,M8編成ですがこちらも全編成が小窓の元山手線ですが,2編成を利用して編成を組んだM2編成と異なりM8編成は全てが元ヤテ25編成と一つの編成から成り立っているのが特徴です。

終わりに

マンガッタンライナーの編成は両編成の個性があるのが特徴です。出自に関しても単に元山手線ではあるものの組み方もそれぞれで異なっており見た目以外にも両編成が特徴を持った編成のなっています。

仙石線20m級旧型国電を支えたもう一つの車両クモハ54はどのように使用されたのか

1960年代の半ばより導入された20m級の旧型国電。主力は主に4扉の72系でしたが3扉のクモハ54も配置されていました。仙石線のクモハ54はどのような運用をしていたのでしょうか。

仙石線近代化の一環で登場したクモハ54

仙石線の近代化は同車が導入される前年より運用を開始した72系から始まりました。72系は戦時中〜戦後にかけて大量に増備された20m級4扉の通勤型車両,63系をルーツにした車両で仙石線に配置されたのは純正72系として導入された物,63系編入車が混じって運用されていました。ちなみに,後に103系と同等の車体を得た970番代は全てが72系として製造された編成が改造されました。72系登場の翌年に登場したのがクモハ54でした。この中にはクハ68も含まれていましたが今回はクハ68も含めてクモハ54として扱います。クモハ54は72系によって置き換えられたクモハ41と同じ20m級3扉の車両でしたが塗装はこの車両からウグイス色の塗装となりイメージを刷新しました。

※画像は宇部・小野田線用の車両

画像出典 Wikimedia commons Own work様

仙石線の快速を中心に運用された

クモハ54が72系や17m級車両のぶどう色,または気動車ツートン色で運用されていたのは異なりウグイス色で運用を開始したのは運用を区別する為でした。クモハ54は快速・特別快速として運用する事を念頭に置いて導入されたのです。車内はセミクロスシートが並びドア付近をロングシートという標準的な近郊形車両であった為オールロングシートの72系より優等列車用として積極的に使用されていました。クモハ54が導入された直後,ぶどう色・気動車ツートン色に塗られていた72系は全てがウグイス色に塗り直されこれ以降仙石線におけるウグイス色は20m級車両用塗装として区別されます。クモハ54は1969年より運用を開始した特別快速でも運用され,引き続き仙石線で優等列車用車両として運用を続けられていました。1970年には中間車のみですが70系が転用され,クモハ54の中間車に組み込まれた編成が登場しました。こうして72系に紛れて仙石線の快速列車や普通列車で運用されていました。しかし同車は戦前製の車両が多く72系よりも古い車両が多く72系よりも老朽化が進行していました。こうしてクモハ54一族は淘汰される事となります。その時にクモハ54を置き換える為に導入されたのが72系970番代。機器は72系その物でしたが車体は103系と同等の車体でありアコモデーション改造を施した車両に置き換えられる事となり、クモハ54は仙石線を追われる事となります。殆どは廃車となりましたが一部の車両は大糸線に転用される者も存在していました。

クモハ54を置き換えた72系970番代。

画像出典 裏辺研究所 ぷち姉様

終わりに

72系が中心だった中でも特に目立っていた存在だったクモハ54。同車が引退してからおよそ40年後にHB-E210系が登場しますがセミクロスシートかつ快速用という面からもクモハ54の再来を感じています。